| |
|
|
|
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||
![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||
| |
|
|
|
|
|
|
|
||||||||||||||||||||||||
| |
ことばと学びの宇宙ホーム > 国語の世界ホーム > 『三省堂 高校国語教育』 > バックナンバー > 2002年春号 |
||||||||||||||||||||||||||||||
| |
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
2002年 春号 対談 新しい「国語表現」の学習をめぐって [出席者] 教師の役割を考える 細川:この「国語表現T」のめざすものを一言でいうとすれば、それは生徒一人一人の思考と表現の活性化です。このことによって、生徒一人一人が自分のことばで生き生きと自分の関心事について教室で語るようになる、つまり生徒自身が表現の扉を内側からひらこうとするのです。そうした環境設定を教師の役割として行うことが、この「国語表現T」のめざすものだと考えています。 高野:教師は、コーディネーターのようなものですね。授業に入る前に、ここでは何をやり、どんな力をつけるのか、そういうコーディネートの仕事がすごく大事だと思います。「国語表現T」という教科書で想定されている授業のスタイルは、おそらく生徒たちがこれまでに受けてきた授業とは大きく異なっているはずです。そのためにも、4月の最初の授業でオリエンテーションをちゃんとやったほうがいいですね。一年間、自分はどういう授業をしようと思っているのか、評価の問題にも触れながらきちんとやることで、授業がめざすものを教師と生徒が共有することがきわめて大事だと思います。 細川:今までの国語表現では、文学者の書いた、すばらしい文章など、俗にいう名文としての「表現されたもの」を分析して、その結果から得られた知見を生徒たちに理解させる、覚えさせるというものでしたね。ここでは、発想を転換して、生徒自身が「表現すること」に眼目を置くんです。ですから、教師の立ち位置というか役割も、自分が表現について知っていることを教えるということから、生徒一人一人にどう表現させるかということに教室の主人公を代えていく必要があると思うんです。 ―生徒が表現活動を行っていく時に、たとえばスピーチなど、あきらかに苦手な子というのも出てきますね。そこでどういう目配りをするか、そのとき教師はどういうスタンスをとることが大事でしょうか。 細川:ぼくは16〜17年、留学生に教えているんですが、最初のうちは、日本語レベルの低い留学生に対しては「できない学生」というふうに認識していたんですよ。ですが、こういう活動学習を取り入れはじめてから意識が変わりました。たとえ変な発音やおかしな文法でしゃべったりしても、通じればいいじゃないか、言いたいことの中身が大事だ、と。もちろん、中身が伝わらないと困るんですけど、中身が伝わりさえすれば、それでいい。「だめだ」と否定的なことを言わないで、エンカレッジメント(勇気づけ)してやるんです。
高野:教師が前に立って、生徒と向き合って授業が行われるのが普通ですが、あれは非常に緊張感があって、よくないんです。そうではなく、生徒の横にいて、横の関係で活動を促していくということが大切ですね。辛いのは、表面的にみると教えていないという状況のなかで、最初のうちはこれでいいのかな、給料もらっている以上、なにか教えなきゃいけないんじゃないかな、という圧迫感だと思うんです。でも、いちばん重要なのは、自分がしていることが子供の認識活動、表現活動にどう結びついているのか、というところにあります。仮に自分は語らず、表現活動を側面から支援するほうが、子供たちの表現活動が成立するとしたら、どちらに意味があるか、ということです。 ―表現の授業を通して生徒たちは他者の多様性を生で知ることになりますが、学校の授業の中ではあまりなかったことですよね。社会に出ると、山ほどありますが。 細川:学校を卒業すると「社会人」と言うでしょう。この言いかたはちょっとおかしいと思うんですよ。学校は、つねに社会に開かれていなければならないんです。国語表現の授業では、学校から出て行く活動があります。そういう意味では、ちょっと負担に感じる先生もいるかもしれないけれど、学校、教室というのは孤立してはいけないわけで、教室から出て行ったり、教室の中に他の人を呼び入れたりする、外の社会とのパイプを、つまり他者との関係を、子供たちが自分で作っていく、そういう活動が望ましいと思いますね。 高野:そういう意味で「クラス企画 ミニ講演会」というような授業にもぜひ取り組んで欲しいと思いますが、それと、自分のクラスにいる人、その一人一人が実は自分にとって他者であるという経験をつくるのが表現活動でもあると思います。4月のホームルームで必ずといってよいほど自己紹介をやっていますよね。どこどこ中学の出身で、趣味は何々で終わってしまう場合も多いわけですが。そんなところから出発して少しずつかかわりを持ちながら、あの子はこういう人だという自分なりの像を形成していきます。しかし、5月の初めあたりに行われるショウアンドテルのスピーチをきっかけに、これまで自分がとらえていた友人に思いも寄らぬ別の面を発見して、びっくりするようです。それはまさに他者と出会う経験だと言っていいと思います。これは教師が一方的に語りかけるという授業形態からは出てこないものではないでしょうか。
細川: まず具体的で必然性のある場面設定が必要でしょうね。「あなたは今、何を考えているの?」「今、あなたの一番知りたいことはなに?」という質問の答えは、生徒一人一人の生活意識によってさまざまに異なるものです。基本的に生徒の考えていること、言いたいことは一人一人すべて異なるからです。だから、クラス単位の活動だからといって、何も皆が同じ活動をしなければならないという理由はどこにもありません。むしろ、それぞれ能力が異なり、背景が異なり、考えていることが異なるのだから、一人一人の作業は異なっていて当然と考える方が自然でしょう。そうなると、クラス単位の活動ができないと教師が考える必要はなくなります。与えられたものを与えられたとおりに教えなければならないという思い込みに教師自身が閉じ込められていなくてよくなるんです。そうすると、授業が円滑に進まないじゃないかと不安になる先生もいるかもしれませんが、この学習活動そのものが求めるものは一時的な円滑さではなく、学期なり学年なりを通した全体の活動の中で生徒が達成する充実感です。だから、生徒一人一人の表現の意図が他者に伝わるようにサポートしながら、クラス全体を組織・運営していくことが担当者の仕事なんですね。 添削から解放されよう 高野:現在行われている「国語表現」という科目が、現場で負担に思われる原因は、「国語表現イコール作文の添削」というような凝り固まった観念にあるように思います。乱暴な言い方になりますが、別に直さなくたっていいんです。直すことが本当にいいことなのかどうか、まず吟味する必要があるでしょう。子供たち自身が「これじゃ伝わらないよ」というように自覚し、あるいは友人からの「何が言いたいかよく分からない」という促しがあって、初めて子供たちにとって直す意味が出てくるわけですから。そもそも、この「国語表現I」の教科書に、そういうコンセプトはもうないんですよね。重要なのは、添削していく観点を子供たち自身がどのように必然的なものに感じ、身につけていくか、ということなんです。自分の気付かないところは、隣の生徒に「どう思うか?」と聞けばいい。つまり、これまでは先生がやっていた添削自体が、生徒たちにとっての重要な学習活動になるはずなんです。 細川: たしかに、熱心な担当者であればあるほど、生徒の犯す些細な誤りも見過ごすことなく、訂正しなければならないという義務感を持つことになりますね。ここで、教師の持つ「正しい日本語」によって生徒の「誤った日本語」を修正するという構図が見られます。けれども、自立意識を生徒に持たせ、生徒が主体的に学習に取り組めるよう方向づけられるのは、担当者だけなんです。必要なのは、「間違いを添削する」ことではなく、生徒一人一人の「良いところを引き出す」ことだと思うんですよ。 高野:そのように教師が自覚的になることで、子供たちの中の閉ざされた伝えたいという感情が回復され、また新たに育まれていくように思います。「間違った日本語」を正すという行為が、子供の表現意欲というか、表現のモダリティーにあたる部分をそぎ取ってきたのではないでしょうか。適切な表現であることも大切でしょうが、その前に表現活動が自己や他者の発見に結びつく学びになっているのかどうかが問われなければならないように思います。教師にとってもそれは同じで、どんな方法をとっても授業というのはしんどいものですが、これまでと違った生徒たちのことばを発見する喜びが、授業の負担感を忘れさせ、支えてくれるんです。そんな印象を「国語表現T」を先取りするかたちで行ったいくつかの実践を通して得ることができました。まあ、だまされたとおもって一回やってみてください、というのが、正直な気持ちです(笑い)。 細川: だから、そういう意味でも、教科書を網羅的に全部やる必要はないんです。先生によって、いろんな活動のタイプもあるでしょうから、まず目次をざっと見ていただき、自分にはどんな活動ができるか、とっかかりを見つけてもらって、できそうなところから入ってみる。そしてうまくいったら、次の別の切り口から入ってみるとか、先生も柔軟に入っていけます。そのように作られていますから、けっして得手不得手を気にする必要はないし、大丈夫だと思いますよ。 評価はみんなで楽しく ―先生たちの中では評価ということについて批判的に考えている方もいるのでしょうが、制度上、それぞれのクラスで成績評価を提出することが義務づけられている、だから、教師として評価をどうしたらいいかは一番の悩みだと思うんですが。
細川: 担当者が自分の観点からそれぞれを点数化することは比較的容易です。しかし、担当者が自分の観点をそのまま点数化したのでは、生徒は担当者のいいなりにならざるを得ません。それでは、参加者一人一人の個性を生かそうとするこの活動自体のダイナミズムが失われてしまいます。けれども、こうした活動型表現学習を行う際には、この評価の問題は避けて通れない事柄です。その困難さを理由にこうした活動自体を否定的に考える意見をしばしば耳にします。つまり、最終段階での一回や二回のテストやレポートでは測りにくい側面をこの活動自体が内包しているからなんです。 高野:ほとんどの学校で学期ごとに中間テストと期末テストが設けられていると思いますが、ぼくの場合で言うと、中間テストは実施していません。その代わりに例えば、1年生の「国語T」ならばショウアンドテルという方法を使った「私のことを語ろう」というスピーチに取り組んだり、新聞への投書を書いたりして、その表現活動に対する取り組み方と成果で中間テストに代わる評価をすることになります。そうしたことを「授業開き」においてきちんと説明することにしています。
―評価の方法を、もう少し具体的に示していただけますか。 細川: 基本的には、序列をつけるという活動ではないですよね。みんなで、ある具体的な目標を目指し、それを達成していくという活動です。だから、みんながいい点を取るようにがんばっていこうよ、というのが基本的な姿勢です。たとえば40人全員80点で、その中で、特にみんなが拍手喝采したような活動をした人物には、90点をあげようとか、多分そういうふうになっていくだろうと思います。もうちょっと明解化するんだったら、最初にハードルをいくつか決めておいて、必ずその量、例えば原稿用紙何枚はクリアしようね、とか、最後の批評会には必ず出席して意見を言おうね、とか。また、評価をするポイントを、ちゃんと自分の問題としてとらえているかどうか、言っていることがよくわかるかどうか、そんなポイントを決めておいて、それをクリアする。最初にちゃんと、生徒たちにそれを約束しておけばいいんです。そして、これをクリアしたらみんな80点だよ、と最初にいっておく。そうすると、みんなそれを目指していきますから。これはひとつの方法です。仮に、全員が80点取ったって悪くないわけでしょう。 高野:学校によってさまざま基準があるでしょうが、ぼくの場合も基本的に細川先生がおっしゃったようなスタンスを取っています。取り組む表現活動によって評価の方法は異なってくるとは思いますが、「私」をどうくぐらせることができたか、あるいは伝えられたかという観点は、どの活動にとっても大事になってくると思います。上手にスピーチできたということじゃなくて、どんな私を発見し、伝えることができたのかという、従来にない観点を大切にする、それが生徒一人一人の表現を大事にしていくことだと思うんですよね。 国語教育全体への波及効果 ―何かドキドキするような教室の様子が目に浮かびますが、こうした授業が定着すると、授業も生徒も先生も、かなりな変身をとげそうですね。 細川:子供たちは、こういう活動を一回くぐると、自分なりの目を持ちはじめるんですよ。しかも何回もくぐることによって、だんだんそれが強固なものになっていくわけです。子供たちには、良いものと悪いものを見分ける力、それを最終的にはつけさせてやりたいと思うんですね。だから、子供たちにわかるような活動にしていかなければいけないんです。どうしても、総合的な活動や教室の外に出る活動というと、ただ地域の人と交流して、「楽しかった」「よかったですね」「みんなで平和と人権と環境について話し合った」で終わっちゃうんですよね。「よかった」「楽しかった」だけでは`ものを見る目aは育たない。だから目的、方法論を、教師がいかにしっかり持てるかというところが、とても重要なポイントだと思うんです。 高野:教師自身が、従来の、一方的に語りかけるスタイル、`教えるaという観念から開放されていく必要がある。しかし、そこをくぐってしまえば、生徒たちの表現活動を支援しながら、その活動によって変容していく姿を楽しんでいける、というのでしょうか。こうした活動をいったん経験した生徒たちは、より高いものを授業に要求しはじめるんじゃないかと思うのです。それによって、「国語表現T」という科目だけでなく、国語科教育全体が動いていくような気がします。 細川:生徒の「考えていること」を引き出すという考え方が方法論として確立していれば、教室の活動は十分に機能するはずです。教室全体を支える核としての基本的な理念のもとでならば、たとえば、その活動形態そのものは、レポート、スピーチ、講演会、テキスト読解、新聞づくり、本作り、あるいはホームページ作成等、さまざまであっていいのです。はじめに言いましたが、ことばの学習は、思考と表現ということばの二面性をコミュニケーションという活動を通して生徒自身がどのように体得するかということです。それは、生徒一人一人の言語活動をどのように活性化させることができるか、ということなんです。そういう意識を教師が持てば、教室は確実に変わります、しかも、これは国語表現だけの問題ではないはずです。国語教育全体へ波及していくに違いないのです。 ―新しい「国語表現T」の授業、とても楽しみですね。ありがとうございました。
|
||||||||||